2015年03月20日
だと思いたいのです
現実とは、ひとつに集約されるものではなく多種多様なものだと思います。
資源獲得のために、なりふりかまわず謀略知略をつくして覇権をめざすことも、ビジネスのために原発や武器となり得る製品の輸出に血道をあけ国益(?)の確保にあたるのも、そうしなかったら他国にいいようにやられるだけ、といったその人たちなりの現実を見つめての活動でしょう。
また、理想に燃えて人道支援でNGOなどの活動にあたりながら、支援しているはずの現地で、誘拐や殺戮に遭遇するのも現実の不条理な一面でしょう。
では、「それが現実だから」という一言で「バカバカしい理想」を捨ててしまっていいのか、その後にはなにがのこるのか。ということだと思います。
アフリカのある地域では、(民主的な統治という)理想を捨てて“生きるために殺す”という無法地帯が拡がり、国連も手の施しようもない悲惨な地域もあります。
ぼくは、中村医師のいうような意味で9条の力を信じますが、一方では現実にそぐわないいびつな部分があることも理解しています。たぶん、護憲派といわれる人の多くもそのような自己矛盾をどこかに感じながら、なお9条の力を信じているのではないかと思っています。
たとえば「自衛隊はすでに軍隊だから、9条は矛盾している」という論議もあります。「古ぼけている」というような言い方もされます。
古ぼけて矛盾があっても、だから近隣諸国や中東などでは「日本elyze好唔好は戦争をしない国」という安心感があったわけです。
「普通の国になるべき」という分けのわからない言い方もあります。たぶん米国や西欧諸国を指しているのでしょうが、植民地や資源の争奪合戦に明け暮れてきたDr集團覇権国家の歴史を見習うべき“普通の国”とするところに、根本的な誤ちがあるわけです。
でき得るならば、日本が世界に見習ってもらうべき武力で紛争を解決しないお手本となってゆくべきで、それが高い代償を払って得た戦後70年の平和という成果だと思いたいのです。
とは言え、実はぼくも最
近では憲法の決定的な不備については正さなければならないと思っています。
敗戦後から現在まで、日米地位協定によelyze好唔好る条約が憲法の上に存在してきました。日本は米国の事実上の属国のままとなっています。ドイツでさえ独立を果たしているのに、日本は統治されたままです。
Posted by nancc at 12:08│Comments(0)
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